高等課程1年生「看護の日」- こころまで、看る -
フローレンス・ナイチンゲールの誕生日の5月12日は「国際看護師デー」です。日本でも「看護の日」として全国各地で様々な行事が行われています。本校の看護高等課程(准看護科)でも毎年『看護者としての自覚を持ってこれからも学習に取り組んでほしい』との思いから、カリキュラムの中に「看護と倫理」の授業の一環として「看護の日」を取り入れています。今年は午前中に山下副校長の「看護と倫理」の講義、午後はアセナ国際学術研究所ディレクター、久間圭子先生の記念講演 - 若い世代に伝えたい「普遍の原理」と看護 - を聴講しました。以下は「看護の日」を体験した生徒の感想を紹介します。
「看護と倫理」の講義を受けて
講義を受けて、今日が「看護の日」ということを知りました。5月12日がナイチンゲール生誕の日であるということ、看護の日は21世紀の高齢社会を支えていくために、看護の心、助け合いの心を私たち一人一人持つために制定された事などを学びました。「看護の心」を身につけること、患者さんを一番に考え行動すること、社会人として常識ある行動がとれることなどを目標にしていきたいと思いました。
(1年Aクラス:NS)
医療の倫理は、最善を尽くすことである。治せない病気であっても、その人の不安や悲しみを理解する努力や言葉かけ、痛みを少しでも柔らげる方法を探して実践するなど、今その人の為に何ができるかを考える事が重要である。それが今年の看護週間のテーマ「こころまで、看る」ことにつながる。そこには自分の倫理感が問われる。自分の内面を磨き誠実で平等に優しい看護ができるよう一生懸命尽くすことが大切であることを学んだ。
(1年Aクラス:MS)
治療できない病気があっても看護できない病気はないという話を伺い、とても心に残りました。余命わずかになっても、看護者によってその時その時の患者さんの勇気や元気を引き出し、それが「命を生きる」ということにつながり、患者さんの生命力が治療法のない病気を超えることもあるかもしれないと思いました。誰もが大切な一つの命を持つ尊厳すべき存在であることを忘れず、裏表がなく信頼される看護師になれるよう日々学んでいきたいと思いました。
(1年Aクラス:KN)
「看護の日」「看護週間」は、看護の重要性を国民一人ひとりに知ってもらうために、中島みち氏を始め、日野原重明氏、橋田須賀子氏など多くの人の運動によって制定された事を知りました。自分自身が今、その看護に進んでいこうとしていることを改めて感じ、しっかり歩んでいかなくてはいけないと思いました。看護職者としての倫理は、人としての倫理と同じものであり、より強く求められるものであると思います。相手の身になり行動する事は看護の基本であり、相手の心までも見守ることができる看護師になれるよう頑張っていきたいと思いました。
(1年Aクラス:MH)
講義の中で印象に残った事は、「看護職も環境の一部」という言葉です。今まで考えたこともありませんでしたが、患者さんにとってはナースも病院の一部である事を改めて納得しました。私たちが発する声や足音、時には気配や雰囲気でさえ療養中の患者さんにとっては影響が大きく不快にさせる要因になることを認識し、「ナースは医療のシンボル=いつも見られている」ことを忘れず配慮して行動しなければと思いました。
(1年Bクラス:MK)
昨年アバンセの館内で「看護の日」のポスターを見ました。その時は漠然としか見ていませんでしたが、先日そのポスターを見た時は、将来の自分に重なる事であり胸に残り感じるものがありました。そして今日の講義を受けて、看護の奥深さや倫理の意味を知り、常に考えながら看護行為をしなくてはならないと改めて思いました。患者さんや家族の立場に立ち、相手の事を考え誠実に看護をしなければいけません。そのためには確実な技術とともに人間としての質も向上させていかなければいけないと感じました。
(1年Bクラス:YT)
講義を受けて、改めて倫理について考えることができました。「倫理」は目に見えないものですが、「行動」という形で表に表れるものだと思います。周りを思いやること、相手の立場に立って考える事だと思います。病院は普段の生活の場と違います。プライバシーも完全に守られるわけではありませんし、人の死を目の当たりにすることもあります。このような特殊な場所だからこそ一人ひとりの倫理感が重要になってくると思います。病室への訪問、そこでの会話、個人に関わる話や羞恥心・自尊心への配慮など、日々の小さな倫理的行動こそが重要だと思いました。
(1年Bクラス:AK)
<記念講演> 若い世代に伝えたい「普遍の原理」と看護
アセナ国際学術研究所 所長 久間圭子先生
ナイチンゲールが生きた時代に比べ、今の時代は社会や環境、医療技術など発展しているにも関わらず、「看護覚え書」が読み継がれ、ナイチンゲールの考えが尊重されている。それは、どんなに時代が変わろうとも「看護覚え書」は看護の原点となるものだと講演を聞いて分かりました。「看護覚え書き」は患者側からの視点でかかれていることや細部にまで注意を払うよう書かれていることから、ナイチンゲールがいかに人を大事にした看護を考えていたかが分かりました。
(1年Aクラス:ME)
最初に、映画「次郎の夢のすし」を紹介された時、なぜすし職人の話なんだろうと思ったが、次郎という主人公が理想のすしを追求し、お金儲けが目的ではなく、一人ひとりに満足してもらえるすしを提供するために自分に妥協しないという姿勢が、ナイチンゲールが理想を追い求める姿勢と同じであることを伝えたかったのだと思いました。ナイチンゲールは対象を“生活する人間”として見つめ、回復過程を助けるために衣・食・住を整えることの重要性を説いています。それらの援助は細心の注意と配慮が必要です。これからの学校生活で、知識と人間としての品格を磨き患者に求められる看護師になれるよう頑張ろうと思いました。
(1年Aクラス:MK)
ナイチンゲールの誕生日である5月12日に新訳「看護覚え書」の著者である久間先生の講義を聞くことができました。先生は私たち学生がまだ1年生であることをふまえ、とても優しい声でわかりやすくナイチンゲールの生きた時代や考え方について教えてくださいました。イギリスの自然あふれる景色、歴史的建造物など見せて頂きながら90分間夢中になって話を聞いていました。今も昔も良い物(本物)は普遍なのだと、だから若い人に伝えられていくのだと分かりました。
(1年Aクラス:RY)
5月12日ナイチンゲールの生誕の日に「看護覚え書」の訳者久間圭子先生の講演を聞けたことは生涯の記念になった。150年も前に衛生看護について明記し、顕微鏡が世の中に出る前から皮膚を細胞レベルで考え看護する―すごいの一言につきる。私はまだ「看護覚え書」を読んでおらず、先生の話を漠然としか聞くことができなかったので、きちんと目をとおしておくべきだったと反省した。自分が経験を積み読み続けるとき、さらに「看護覚え書」は深まっていくと言われたので、生涯読み続けたいと思った。ナイチンゲールは「専門職の責務」として、自分がいるときもいないときも同じ看護を、生命を守り健康と安楽の増進のために迅速で正確な観察ができる訓練を、と言われました。使命感をもって看護できる人になりたいと思いました。
(1年Aクラス:YT)
ナイチンゲールの生きた19世紀のイギリスは高度な医療技術のない時代です。機械や器具、コンピューターなどない時代に記された「看護覚え書」には医療機器など何もなくてもできる看護がたくさん書いてあります。免許がなく出来ることが限られている私たち学生こそが学ぶべき知識(衣食住、環境の清潔、リスクマネジメントなど)がつまっていると思いました。私はまだ学び始めたばかりで知識技術を習得することに必死でそればかりに集中しがちですが、先生の言われた不可視の部分(使命感、動機、思考力、優しさ、共感、熱意)を大切にしていきたいと思いました。患者さんに何をしてあげられるか、患者さんに必要なことは何か、心・気持ちの部分を大切に、それに加えて知識・技術を活かすことができるようになりたいと思いました。
(1年Bクラス:MK)
普遍の原理には二つの重要な要素がある。それは科学的な要素(可視)と倫理的な要素(不可視)なものである。可視的なものは知識や技術によって行動や成果として見える。不可視なものは目に見えないが、この二つの要素を併せ持つナースこそ理想の看護師像といえる。看護師を目指したときから使命感や熱意はもっているつもりだが、仕事の中でそれを持続することは難しい。毎日の繰り返しの中で惰性になる可能性があるからだ。しかしナイチンゲールは、日々どのようにすれば病む人間の生命力を維持増進できるか考えていたに違いない。退屈している暇はなかっただろう。そこで生活する人間を見つめ、その変化に気づき対応する熱意が大切だ。不可視の部分を養うことがこれからの自分の課題となる。
(1年Bクラス:KS)
ナイチンゲールが生まれ育った場所をスライドで拝見し、更に興味をもつことができました。イギリスの豊かな自然と幼少期よりの社会的な経験・高い教養が彼女を作ったのだと思いました。人間も自然の中の一部であり、病気も自然の摂理に従っているという事や人間の自然治癒力を高めるために環境を重視した看護が重要であるということにとても共感しました。すし職人の次郎もナイチンゲールも、信念と誇りを持ち驕ることなく日々精進する気持ちを忘れないということにおいて共通していると思いました。いかに相手のニーズに応えるかという洞察力は、時代が変わっても変わることのない普遍の原理であると感じました。
(1年Bクラス:AK)